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ホワイトマーシュの戦い(-のたたかい、英:Battle of White Marsh)は、アメリカ独立戦争中の1777年12月5日 から12月8日にかけて、現在のペンシルバニア州フォート・ワシントン近くホワイトマーシュで戦われた戦闘である。一連の小競り合いの形をとったこの戦闘は、1777年にイギリス軍とアメリカ大陸軍が会したものでは最後のものとなった。イギリス軍の指揮官ウィリアム・ハウは占領していたフィラデルフィアから大部隊を引き出し、冬が始まる前にジョージ・ワシントンと大陸軍を潰そうと考えた。ワシントンはイギリス軍の攻撃を撥ね返し、ハウはワシントンとの会戦で決着をつけられないまま、フィラデルフィアに引き返した。イギリス軍が撤退した後で、ワシントン軍はバレーフォージの冬の宿営地に引き込むことになった。 1777年10月4日のジャーマンタウンの戦いでの敗北後、ワシントン軍はパーキオメン・クリークを越えてスキッパック・パイク沿いにポーリングズミルまで撤退し、そこで10月8日まで駐屯していた。その後、スキッパック・パイクを東に移動し、フォーティフット道路で左に折れてサムニータウン・パイクを進み、タワメンシン町にあるカルプスビル近くのフレデリック・ウォムポールの所有地に宿営地を張った。そこにいる間に、ジャーマンタウンの戦いで受けた傷がもとで、フランシス・ナッシュ将軍が死に、メノナイト集合墓地に葬られた。10月16日、ワシントン軍は二手に分かれ、1軍はフォーティフット道路を経てスキッパック・パイクを進み、もう1軍はサムニータウン・パイクからノースウェールズ道路を進んだ。10月20日、この2軍はスキッパック・パイクを下ってホィットペインに至った。11月2日、ワシントンは1軍をスキッパック・パイクから、1軍をモリス道路から現在のペンシルバニア・アベニューに進ませ、フィラデルフィアの北西約13マイル (21 km)のホワイトマーシュまで進軍させた。 12月早く、イギリス軍のFX ウィリアム・ハウ将軍は冬が来る前にワシントン軍を叩いておくためのその年最後の機会を捉えようと考え、新しい宿営地に移動しつつあるという噂が聞こえてきたアメリカ大陸軍に対する攻撃準備を始めた。 ジョン・クラーク少佐が指導するワシントンの情報網は、クエーカー教徒の主婦リディア・ダラーを通じて、イギリス軍が大陸軍を急襲する計画を立てていることを掴んだ。ハウが約14,000名の部隊を率いて11月4日の深夜にフィラデルフィアから進発したとき、大陸軍も迎撃準備が整っていた。イギリス軍の前衛はチャールズ・コーンウォリスが率い、ジャーマンタウン・パイクを進んだ。第2陣はドイツ人傭兵部隊を率いたクニプハウゼン将軍が大陸軍の左翼に向かった。 12月5日の早朝、コーンウォリス軍が大陸軍の前線の右方3マイル (5 km)のチェストナットヒルにいるところを見つけ、アレン・マクレーン大尉の偵察隊がベガータウン(今日のマウントエアリー)近くで銃撃した。ワシントンはジェイムズ・アーヴィン准将にペンシルバニア民兵600名を付けてコーンウォリスの前衛部隊の迎撃に向かわせた。それに続く戦闘でアーヴィンは負傷し捕虜にされた。その夜、イギリス軍はベスレヘム・パイク沿いのセントトマス・エピスコパル教会で宿営したが、その場所は大陸軍からは半マイル (0.8 km)も離れていなかった。 12月6日と7日には一連の小競り合いが起こり、イギリス軍は常に大陸軍の弱いところを探っていたが、その度にワシントン軍に撥ね返された。一回だけ、ジョセフ・リードとジョン・キャドワラダー将軍が大陸軍と離れてしまい、ドイツ軍人兵部隊に攻撃された。この時は、初日に開戦の火蓋を切ったマクレーン大尉とその騎兵隊が2人を救出した[1]。 12月7日、ハウは現在のアビントンにあるエッジヒル道路から大陸軍の左翼を衝くことを試みた。ワシントンはダニエル・モーガンのライフル狙撃兵隊とモーディカイ・ギストのメリーランド民兵隊を送って迎撃させた。激しい交戦(エッジヒルの戦いと呼ばれることがある)の後で、両軍は退いた。 翌日、ハウ軍は会戦を諦め、フィラデルフィアに退き返した。 大陸軍の損害は死傷者90名であり、この中にはモーガン隊の日経225 とメリーランド民兵の16,7名および第1ニュージャージ連隊のジョセフ・モリス少佐が含まれていた。他に32名がイギリス軍の捕虜となった。イギリス軍は60名が死傷した。 ワシントンは、ハウとの戦いで決戦に及べなかったことで不満を抱き、大陸会議の議長に次のように報告した。「私は部隊がしっかりと攻撃したと心より思っている。我が軍の配置と宿営地の強固な位置からあらゆる可能性ある手段を採れば、幸運で良い結果になったことだろう。同時に私は我々の陣地から敵に攻撃を掛けることを思いとどまらせたその理由、慎重さおよびあらゆる原則的な政策を付け加えねばならない。手段を正当化するのは成功でしかなく、敵の配置から考えて成功は期待できなかった。」[2] 12月11日、大陸軍はホワイトマーシュを離れ、バレーフォージに向かった。そこまでの距離は13マイル (21 km)しかなかったが、8日間を要した。 バージニア植民地東岸の投資信託 軍最終拠点であったヨークタウンにて、米仏連合軍がチャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍約7,000を包囲、降伏させた。この戦いによって、アメリカ独立戦争における植民地軍の勝利は確定し、独立戦争は事実上の終結を見た。 1781年5月22日、フランス軍のロシャンボー将軍が大陸軍のワシントン将軍と会談し、イギリス軍に対する作戦を練った。彼らはイギリス軍の総司令官ヘンリー・クリントン指揮下の10,000名に占拠されているニューヨークの奪回作戦を作ろうとしていた。一方で、バージニアにいたラファイエット将軍からは、イギリス軍のコーンウォリス将軍がバージニアのヨーク川傍のヨークタウンで防御的な戦術を取ろうとしているとの報告があった。コーンウォリスは南部戦線を指揮していた。彼は広い範囲を占領していたが、大陸軍のナサニエル・グリーン将軍が焦らし戦法(Fabian strategy)を駆使してこの2年間にイギリス軍の戦力を漸減させたため、残る兵力7,000人とともにヨークタウンに戻って物資と増援が来るのを待つ体制を強いられていた。ヨークタウンにはイギリス海軍の支援がある予定だった。 1781年7月19日、ニューヨークのドブスフェリーに野営していたワシントンはコーンウォリスの状況を聞いて次のように記録している「私の意見では、この状況下では2つのポイントに十分な戦力をつぎ込むべきだろう。1つはニューヨークに隣接する地域に大陸軍と民兵を、残りの大陸軍とフランス軍はバージニアへ」。 1781年8月14日、ワシントンは、西インド諸島にいたフランス軍の外国為替証拠金取引 提督から彼の艦隊がチェサピーク湾に向かっているとの知らせを受けた。 グラス提督の28隻からなるフランス艦隊はバージニアに向かった。同時に8月21日、ワシントンは軍を南下させ、その途中、ド・グラスの艦隊がチェサピーク湾に到着した。ド・グラスはそこでイギリス海軍のトーマス・グレイブス提督率いる艦隊とチェサピーク湾の海戦(ケープの戦いともいう)を行い、勝利した結果、湾の制海権を確保した。コーンウォリスは孤立した。18世紀19世紀の200年を通じてイギリスの艦隊が負けたのはこの海戦のみである。 1781年9月28日、ワシントンとロシャンボーはヨークタウンに到着し、ラファイエットの部隊およびグラスの3,000名と合流した。結局、コーンウォリスと対峙したのは17,000名となった。2対1の戦力差であった。ヨークタウンは攻囲され銃火に曝された。 コーンウォリスはその窮状をニューヨークのクリントンに知らせた。クリントンは援軍5,000名を載せた艦隊が10月5日までには到着すると約束した。両軍は互いに守りを固めていた。10月11日仏米連合軍はイギリス軍の鼻先わずか400ヤードから2回目の攻撃を開始した。3日後、連合軍はイギリス軍の堡塁2つを占領し、前線をイギリス軍の目前まで進めた。連合軍が包囲の輪を狭めてくる一方で、コーンウォリスはニューヨークからの救援隊の到着が遅れていることがわかった。10月16日、イギリス軍はフランス軍の砲兵隊に攻撃を挑んだが失敗した。前線が近づいた以上、連合軍の砲火はイギリス軍の陣地の中にも直接降り注いでいた。その夜、ヨーク川を渡ってグロウスターに脱走が試みられたが、ひどい嵐のために失敗した。コーンウォリスの軍は食料も弾薬も底を突きかけており、10月17日、遂に降伏を申し出た。10月19日、調印が行われ、正式に降伏した。約7,000名のイギリス軍が捕虜となった。 戦闘に続く翌朝、降伏の調印式が行われた。コーンウォリスは病気を理由に欠席した。欠席はしたものの彼はワシントンに「これは貴方の偉大な勝利だ。だが貴方の月桂冠はデラウェアの岸辺にこそ飾られるだろう。」と伝えている。伝説ではあるが、イギリス軍は『The World Turned Upside Down(世界がひっくり返った:イギリス名誉革命の頃の唄)』を吹奏しながら行進したというが、証拠は何も無い。コーンウォリスの副官がまずフランス軍のロシャンボー将軍に降伏を伝えようとしたとき、ロシャンボーの副官デュマが"Vous vous trompez, le general en chef de notre armee est a la droite"(間違ってるよ。総司令官は右にいる)と言って、資産運用 のところへ連れていったというのは、有名な話である。その中尉は改めてワシントンに降伏を伝えたが、ワシントンはコーンウォリス自らが来ていないのでこれを拒み、部下である中尉は大陸軍の指揮官の一人であるベンジャミン・リンカーン将軍に降伏するよう指示した。中尉は彼の軍刀をリンカーンに渡し受領された。イギリス軍の全兵士が降伏し、当時の習慣で火器を踏みにじるよう要求された。 捕虜となったイギリス兵は大陸にいた兵士の約4分の1であった。イギリス軍はまだニューヨークやチャールストンのようなキーとなる港を占領していたので、その時点ではヨークタウンが戦争のクライマックスであるとは認識されていなかった。ヨークタウンの降伏後も散発的な戦闘は続いていた。ワシントンはまだしばらくは戦争が続くものと信じていた。 しかし、イギリスの首相フレデリック・ノースはヨークタウンの降伏の報せを聞いて辞任した。彼の後を受けた首相は戦争を続けることは得策ではないとして、和平の交渉に入ることを決めた。1783年パリ講和条約でイギリスはアメリカの独立を承認し、イギリス軍の大陸からの撤退を約束した。